2013年1月29日火曜日

ただひたすらに火を焚く間に ・・・


 ただひたすらに「火を焚く一日」であった。前夜にうっすらと積もった雪で、山への道が凍結しているという連絡。仲間たちに集合時間を1時間遅らせるとともに、スタッドレス・タイヤを履く4WDを運転するメンバーと徒歩で山に通ってくるメンバーには、点火、窯焚きの予定通りの作業開始をお願いする。今日は、たっぷり8時間は「窯焚き」をしなくてはならないのだ。開始時間が遅れると、帰りの時間が夜になってしまい、むしろその方が懸念されるからである。山に行く途中、日陰のカーブでスリップしてガードレールに激突している車を見かけた。

 この「火を焚く」ということ、一見簡単なようで、なかなか奥が深いのである。「窯焚き」においては、一定の強い火力を8時間ほど途切れることなく、維持継続しなくてはならない。薪の大きさ、乾き具合、焚口での立て方、本数、空気の供給、熾きの量など気を配らなくてはいけないことが多く、薪を多く入れればよく燃えるというわけでもなく、もちろん少なければ強い火力が得られない。この辺の按配を見計らいながら火を焚くのである。


 火を焚いている間の楽しみもいくつかある。まず「食」の楽しみ。仲間が色々なものを作ってくれる。餅を焼くもの、なつかしい水団(すいとん)を作ってくれるもの ・・・。今日一番の御馳走は「甘酒」。どちらかといえば、私は苦手であったのだが、めったに手に入らない「酒粕」を頂いたとかで作ってくれた「酒糟の甘酒」、冷えた体にすっとのど越しよくとおっていく。そして適度なすっきりとした甘さ。いやあ、美味かった。
  
   
   


 腹ごなしの運動は「薪割り」。腕に覚えのある元気者は、斧をふるって丸太に挑む。炭焼きの他にも竈(かまど)を使ったり、焚火をしたり、我々の山遊びは大量に薪を必要とする。だから、暇を見ては薪を割る。そして、よく薪が燃えるためには、十分乾燥させる必要があるので、今年必要な薪をこの時期に割って、乾燥させるために積み上げておく。子供の頃には、ずいぶんと薪割りをやらされたものだが、これも、「こつ」があって長く遠ざかっていたため、一刀両断とはなかなかいかず、効率的で、力いらずの電気動力による「薪割り機」に頼ってしまう情けなさ。

 ところで、クヌギの木には、樹液を求めて、カブトムシ、クワガタムシなど、色々な虫たちが集まってくる。また、ある種の蛾やクワガタなどの幼虫が好んでクヌギ住むが、この日、薪割をしていて、木の中から出てきたのが、「ミヤマカミキリ/深山髪切」の幼虫。なんと、この虫を焙って喰うと、これが「クリーミーで美味い」と言う剛の者たちがいた。実際、彼らは焙って食い出したが、蚕の蛹(蛹)、蝗(イナゴ)、ザザムシ、蜂の子と、虫を食することでは鍛えられているはずの私も、さすがにこればかりは遠慮した。しかし、くだんの連中は臆することなく美味いと食していたからびっくり ・・・。

 こんな風に、なんやかんやと「窯焚き」の間を遊んでいるうちに、瞬く間に8時間の「窯焚き」の時間は過ぎていく。空気調節口を残し、窯口をレンガを積んで遮蔽し、暗くなりかけた空に、明日の天気を心配しながら、帰路につく。
  
  

2013年1月27日日曜日

炭焼き五日目 ~さて、その出来映えは ・・・~


 今年一番の寒気が来襲という天気予報。眩しいくらいの青空であるが、たしかに山では身を切るような寒風が吹きすさんでいる。そんな中、いよいよ、「窯出し(炭出し)」の日を迎える。炭窯を閉鎖していた土壁を崩し、2週間ぶりに窯を開け、炭を取り出す日である。上の写真は、「窯出し」直後の炭の状態である。曲がっている材が多かったが、菊の花の文様が、断面に浮き出ている。いつも第一回目は、炭の出来がいまいちで、今年も「窯焚き」の火力が少し足らなかったのではという反省があったので、出来を心配したが、まずまず焼き上がりで、ほっと胸をなでおろしたというのが、一同の本音である。一般の炭焼き体験参加者には、米袋一杯の出来立ての菊炭と木酢液をお土産に持って帰ってもらう。(下記左の写真は、開けた直後の窯内の様子)


 さて、第一回目の炭焼きを午前中に無事終えると、息継ぐ暇もなく、午後は、第二回目の炭焼きの初日の「窯入れ」が始まる。責任者は私。前の回の粉塵がまだ残る窯内で、顔を真っ黒にし、どろどろになりながら、360本ほどの窯木と85束のバイタ(柴を束ねたもの)を、1時間ほどかけて積み上げた。さっ、明日は本番の「窯焚き」である。8時間ほど、ただひたすら火を焚く。明日も一段と強烈な寒波が襲来するという。
  
  

2013年1月25日金曜日

爺さんたちは柴刈りに ・・・


 いつもどおりの山遊び。今日の作業は、この週末から始まる第二回目の炭焼きに必要欠かせないバイタ(柴を束ねたもの)づくり。窯木を採った残りの細い枝や雑木を束ねて作るのである。

 まず、いつものように山頂まで登る。深々とした落ち葉の絨毯を踏みしめながら登る。このうえもなくよく晴れた青空。気温は2.5℃であるが、ぽかぽかと太陽が体を暖めてくれる。すぐに汗ばんでくるほどである。姿は見えないが、耳を澄ませば、この山に多く生息している「コゲラ(小啄木鳥)」か、「アオゲラ(緑啄木鳥)」であろう、「コン、コン、コン ・・・」とリズミカルに樹をつつく音が響いている。

 そして、登る山道の傍らには、「コウヤボウキ(高野箒)」の種子がタンポポのように ・・・。花が咲くのは秋、今は枯れてはいるが、その長い冠毛が陽光に光る様は、枯れてもなお、意外と美しいのである。「コウヤボウキ」の名は、高野山で「コウヤボウキ」の茎を束ねて箒を作ったことに由来するという。



 そして、落葉樹がすべて葉を落とした林の中で、一際目立つのは「ヤマコウバシ/山香ばし」。葉を揉むと芳香があるため、この名がついたらしいが、この木はなんといっても、冬になっても葉を落とさない事である。「落ちない」ことから、「受験生のお守り」ともされる由縁である。黄褐色に紅葉し、葉の一部は落とすものの、ほとんどの葉は枝に付いたままで冬越しする。だから夏の間はその存在がほとんど目立たないが、この季節になると目立つので、すぐわかるのである。これを、したたかとみるか、しがみついているとみるか、見方は分かれるが、我々爺さんたちは、わが身に重ねて見ているのである。

  山頂から下り、クヌギ林でせっせとバイタ(柴)作りに励む。75歳を筆頭とする爺さんたちは今年もバイタリティにあふれ、したたかで、粘り強く、しかも陽気で元気である。
  
  

2013年1月22日火曜日

新春から子供たちと遊ぶ


 先週の週末は、炭焼きの合間を縫って、子供たちと遊ぶイベントが連日行われた。年初めから、週5日ペースでの山遊び。現役並みの忙しさであるが、自然の中で体を動かしているので、少しも疲れなどは気にならず、かえって夜はぐっすり眠れる有難さ。二日とも天気はまずまず、野外での食事も太陽の恵みを受け、心地よかった。

 まずは、「里山親子探検隊」というイベントのお手伝い。親子で参加してもらい、この山で採集した色々なもの、例えば、色々の種類のどんぐり、その殻斗、イガ付きの栗、松ぼっくり、落ち葉、柿の実、ハンノキの実、椿の実の殻、竹の短冊 ・・・などを材料として、缶にいれ、「飾り炭」を焼く。そして椎茸のホダ木づくりをする。また、昔ながらの竈(かまど)で米を炊く。そんな体験をしてもらうイベントである。一見脆いと思われる材料でも、上手に焼けば、元の形を損なうことなく、綺麗な炭ができるのである。「ウスタビガ」の繭をいれた親子がいたが、見事に繭の原形をとどめた炭ができた。



 そして、あくる日は、公園で活動するボランティア団体、6団体が合同で行う「新春餅つき大会」。大人と子供を交えての数であるが、一般の参加者約40名、活動団体から約30名、70名を超える大人数で餅つきを楽しんだ一日。8臼、16kgほどの餅米を搗(つ)くのであるが、まず公園にある竈で蒸篭(せいろ)を使って蒸す。この竈で火を焚くというのが、一見楽そうに見えるが、結構難しいのである。火を熾すのは、団扇では上手くいかないので、これは「火吹き竹」にかぎるのである。子ども達も餅つきが珍しいのだろう、みんな杵を持ちたがり、餅を丸めるお手伝いをしてくれる。あんころ餅、きなこ餅、納豆を使うので関西独特とは思えないが、私は関西に来て初めて知った納豆とおろし大根に混ぜて食べる納豆おろし餅。そして関西定番の丸餅雑煮。始まった子供たちとの遊び。また今年も一年子供たちから笑顔をもらえる。
  

2013年1月17日木曜日

火打石で火をおこす


 炭焼きの「火入れ」の儀式を見ながら、自分で「火打石(ひうちいし)」を作ってみたいとずっと思っていた。古くは「燧石」とも表記される「火打石」。年末に年明けの炭焼きに使う「火打石」を作ってみようと思い立つ。「石」を作ることはできないのであるから、正しくは「火花式発火法」に用いる「火打道具」のセットを作ってみるというのが正しかろう。「火花式発火法」とは何か? 鋼鉄片の「火打金(ひうちがね)」に硬い石を打ちあわせて出る火花を「火口(ほくち)」に点火する方法で、この「火打金」、「火打石」、「火口」が「火打道具」である。

 日本における「火打石」の歴史は古く、「古事記」において、「倭建命(やまとたけるのみこと)」が叔母の「倭媛(やまとひめ)」から授かった袋に入った火打道具を用いて、富士の裾野で襲い来る敵から難を逃れた話がよく知られ、また「養老律令軍防令」においては、兵士50人ごとに「火鑽(ひうち)」1具と「熟艾(やいぐさ)」と呼ばれるモグサなどで作った火口1斤の携帯を義務付けたという記述があるという。(Wikipediaによる)

 「火打石」による発火の原理は、「火打石」を「火打ち金」に打ち付けることによって剥がれた鉄片が火花となり、それが「火口」に移り、発火を得るものである。まず「火打石」。材質としては玉髄、チャート、石英、ジャスパー、サヌカイト、黒曜石などが適しているというが、「チャート」を産出すると聞いた近所の場所で、年末に採集してきた。その近くに「火打」という地名があるので、何か関係があるのかも知れない。「火打ち金」、これはちょうど不要になった金鋸の歯があったので、それを折って重ねたものを使う。その他、鉋の刃など焼の入った鋼鉄ならば何でもよさそうである。これを握りやすく使い勝手のいいように木で挟んで固定する。そして最後は「火口」。木綿を3~4cm角に小さく切っったものを、蒸し焼きにして作る。木の加工に少してこずったが、まあ何とか使えそうなものが出来上がった。さっそく試してみたが、見事に火がついたのである。これさえあれば、サバイバル、どんと来い!!???。気分はもう「倭建命」。下の写真が完成したマイ「火打ち道具」と発火の瞬間の写真である。


2013年1月16日水曜日

炭焼き四日目 ~後は天にまかせなしゃあない~


 炭焼きも四日目である。公園事務所の前に植えられている蕾が大きく膨らんだ「ミツマタ(三叉)」を見ながら窯へと向かう。この木は古くから和紙の原料として有名であるが、早春に外側が白色で内側が黄色の可憐な花が咲く。この公園で一番最初に咲く花でもある。

 今日の作業は「くどさし」。「竈(くど)」とは、「竈(かまど)」のうち、その後部に位置する煙の排出部を意味する言葉だという。そして、「さし」とは「鎖し」、閉ざすことを意味するらしく、すなわち「くどさし」とは、窯の排煙口を閉鎖し、空気を遮断することによって、燃焼を止めることである。

 この工程は、炭焼きの中でもかなり重要な作業で、このタイミングが早すぎれば、生焼けの炭ができ、遅すぎれば灰になってしまうのである。そのタイミングを決めるため、朝からほぼ1時間ごとに排煙口の温度を計測し、マッチの点火時間を測定する。炭焼き二日目の燃焼が十分に足らなかったためか、なかなか窯内の温度が上がらず、燃焼が進んでいないと推測されるので、「くどさし」の判断が出来ない。開口を全開にし、どうにか、日暮れまでには完了したいと皆にやや焦りの色が濃くなる。

 そして、15時30分、排煙口の温度は300℃を大幅に超え、マッチの点火時間も申し分ない結果が得られた。「くどさし実施」の判断である。排煙口を石板で蓋をし、土で覆う。そして、窯口も土で覆って埋め、完全に空気を遮断する。これで「くどさし」完了。さあ、どういう炭が焼けるのか? 人事は尽くしたのである。賽は投げられたのであるから、ここからは「運を天に任さなしゃあない」ということである。例年初回の炭焼きは、窯が冷えていることもあって、出来がよくない。さて、11日後の窯出しが楽しみである。
  
  

2013年1月15日火曜日

待ちに待った炭焼きの三日目は ・・・


 首都圏は大変な雪とのニュース。我が地方は大雨、所によっては大雪という天気予報であったが、朝起きてみると、冷たい雨が結構激しく降っている。そして寒い。

朝食もそこそこに恐る恐る山へと向かう。焚き始めた炭窯はもう止めるわけにはいかないのだ。みぞれ混じりの雨であったが、積雪も凍結もなく、何とか到着できた。京都方面から来た仲間は、道路がシャーベット状になっており、怖かったらしい。向かいの山の頂上付近は冠雪しており、雪と雨のラインがくっきり分かれているのが分かる。


 さて、三日目。今日の炭焼き作業は、窯内の温度や状態を推定し、明日の「くどさし」と呼ばれる空気を遮断して、これ以上の燃焼が進まないようにする重要なタイミングをコントロールための作業を行う。我々はプロではないので窯につきっきりという訳にはいかない。できれば明日の昼ごろに「くどさし」の作業を終えたいのである。そのため、窯口や排煙口の温度を1時間おきに測り、煙の出かたや色を観察し、また木酢液の溜まり具合などから、どのくらい熱分解=燃焼が進行しているかを推定する。みんなの意見からすると、燃焼の進行がかんばしくないようである。午後4時、空気調節口を全開にすることを決め、明朝の窯の状態を見てから、「くどさし」の時間を決定することとした。作業を終え、山を下る頃には、雨もすっかりやみ、雲を通して薄日もさしこみ、ダム湖の湖面に映える光景がこよなく美しかった。

  
  

2013年1月14日月曜日

待ちに待った炭焼きの二日目



 二日目 ・・・。ただひたすらに火を燃やす一日である。例年、約8時間ぐらい燃やす。

 朝9時に集合。古式の則り、火打石による点火からこの日の作業が始まる。今回は先達の方に点火を行ってもらったが、実は私はその先達から教えてもらい、「マイ火打石」を持っているのである。次回ぐらいからは私がやってみようかとも思っている。
  
  
  
  
  

 日本における「火打石」の歴史は古く、「古事記」において、「倭建命(やまとたけるのみこと)」が叔母の「倭媛(やまとひめ)」から授かった袋に入った火打道具を用いて、富士の裾野で襲い来る敵から難を逃れた話がよく知られ、また「養老律令軍防令」においては、兵士50人ごとに「火鑽(ひうち)」1具と「熟艾(やいぐさ)」と呼ばれるモグサなどで作った火口1斤の携帯を義務付けたという記述があるという。

 炭を作る原理は単純で、「木-煙=炭」が基本である。従がって、木から水蒸気、セルロースなどを熱を加え、煙として取り除けば、炭ができるという理屈である。だから、いったん火をつけたら、あとは窯内の温度を、窯木が自然に熱分解を起こす温度の600度程度に上がるまで、ただひたすらに火を燃やす。窯木を燃やして炭を作るわけではないのである。窯内がその温度に達したかどうかは、窯内の温度を測ることができないので、煙突や窯口から吹き出す煙の色、窯口の炎の状態、温度などで判断するのである。


 600度程度に窯内の温度が上がったと判断したら、空気を供給する空気調節口のみを残して、薪の供給を断ち、窯口をレンガと粘土で遮蔽する。これで窯木は、窯内の温度で熱分解が進行する、いわば蒸し焼き状態となり、熱分解をさらに進行させて、完全に炭素部分のみが残り、炭へと至るのである。窯口で火を焚くのが約8時間程度の比べ、蒸し焼き状態にしておくのが、約1日半」、36時間であるから、窯木を燃やして炭を作るのではないということが理解していただけよう。窯口の熱い温度に耐えながら、レンガを積み、粘土で固めていく。まさに「3K作業」である。これでこの日の炭焼き作業は完了。

 作業の合間を縫って一般の体験参加者に山の手入れや里山、クヌギ再生林などについて説明するために、自然観察路を歩いていたら、もう「コブシ(辛夷)」の花の蕾が大きく膨らんでいるのに気がついた。今年は、少し開花が早そうである。


  

2013年1月13日日曜日

待ちに待った炭焼き始まる

 いよいよ待望の炭焼きが始まった。

 第一回目、一日目は神事から始まる。窯口に飾り物を飾り、お神酒をあげ、二拝二拍手一拝。これから二ヶ月にわたる炭焼き作業の安全と、よい炭が焼けるようにと山の神に祈って窯を開く。

 「炭焼き体験教室」も兼ねているので、今回は8名程度の一般参加者、同じ公園に所属する他クラブの参加者、炭焼きを受託している我がクラブの参加者を合わせて30人程度の規模で行う炭焼きとなる。

 菊炭と呼ばれ珍重された一庫炭(=池田炭)の歴史、この公園で炭焼きを行うようになった経緯、炭焼き工程、注意事項の説明などを参加者に行い、その後実際の作業を体験してもらう。実際の作業と言っても、クヌギ再生林の手入れ、伐採、窯木づくりなどの体力勝負の大変な作業の大半は、我がクラブの日常活動の中ですでに終えているので、最後のわずかな工程の部分を体験してもらうだけである。


 クヌギ林で窯木づくりや「バイタ」と呼ばれる柴木を束ねたものを作ってもらう作業をし、窯口近くまで炭の材料となる窯木とバイタを運ぶ。窯は直径約2m、3㎡ちょっとの広さであろうか、そこに手渡しをしながら、窯内に窯木と「バイタ」とを一緒にぎっちりと詰める。優に300本ほどの窯木が入ってしまう。予備乾燥を施して一日目の作業を終える。

 炭の薫り、薪からあがる煙の薫り ・・・。変わっていない。すべてが1年ぶりで心地よい。待ちに待った炭焼きが始まったのだ。
  
  

2013年1月11日金曜日

初・山遊び



 山遊びの初日である。ボランティア仲間全員10人が顔をそろえる。皆、待ちかねたような顔つき。まず標高350m程の山頂までゆっくりと登る。毎週登っていたのに、2週間程空けるともう体が重い。70歳代半ばの長老?もしっかりと後をついて登ってくる。山頂の標識にタッチし、今年の山遊びの無事を願う。

 各自、雑木を2、3本ほど「初伐り」をし、鋸の切れ味と伐る感触を確認する。ひとしきり軽めの作業で遊んだ後は、この週末から始まる炭焼きの準備のため下山する。

 そして、下山の道すがら、あたりを見渡せば、この山に自生している柿は、まだその実を鮮やかな赤のままで残しており、野鳥たちの貴重な食料となっているようだ。

 こんな風に、今年の山遊びもまた始まった ・・・。