2016年5月27日金曜日

明日のためにクヌギ苗100本を植える




 遊びの山の「クヌギ(椚、櫟)」の再生林がちょっと危機的状況になってきたため、植樹を計画し、そのための穴掘りを先週の活動で行った。

 ある会社のCSR活動の一環としていただいたクヌギ苗100本を早速植えた。2年ものだというが、1.5m~2mほどの立派な苗である。先週掘ったクヌギ再生林の斜面の穴に、この公園で得られた腐葉土を入れ、丁寧にクヌギ苗を植えていく。1時間半ほどで植樹完了。本日の天気予報は午後から雨。いい塩梅である。

 10数年後には、立派なクヌギに育って、我々の後輩たちが見事な菊炭を焼いてくれると期待したい。まだまだ鹿の食害などで萌芽しなくなったクヌギも多い。しばらくはこの活動も続けていこうと思う。

2016年5月16日月曜日

先人たちの窯跡が ・・・


 間伐作業の傍らにあったのが、炭窯跡。窯本体は崩れてしまっているが、煙突の形がしっかり残っている。山中には至るところに炭窯跡が残されているが、クヌギ林の近くに簡素な炭窯を作り、そこで炭を焼くというのは先人たちの知恵でもある。窯木は炭にすると、体積で6割、重さで3割に減少する。軽トラなどなく、全てが人力に頼っていた時代。できるだけ運びやすくして麓まで下ろしたのである。また炭窯は共有で、誰が使ってもよかったと聞く。

 煙突の内側には、黒い煤の跡もしかっり残っている。ちょうど窯口のあたりに生えている一抱えもある「コナラ(小楢)」から推測すると、その「コナラ」が生える前、数十年前に放棄された窯であろう。ちょうど化石燃料や電気・ガスへの利用が進んだいわゆる「燃料革命」の時代、1960年代であろうか。崩れ落ちるのも、時間の問題であるが、少しでも先人の足跡を長く残そうと、窯跡の整備も行った。   

 死語ともなってしまった「炭」、「炭焼き」。そんな「炭の文化」を、今私たちが山の手入れをし、炭焼きをして、引き継いでいる。この朽ちた炭窯、誰が使っていたのかはわからないが、時を超えた縁を感じ、煙突孔に触ってみると、ここで炭を焼いていた人たちの思いが、温もりとして伝わって来るような感じがした。
 
 林の中で、あれほど華やかに咲いていた「モチツツジ(黐躑躅)」も、もう終わりである。


2016年5月12日木曜日

山師たちの道標



 遊びの山の山頂付近。咲く白い花は、「ハクサンハタザオ(白山旗竿)」。その脇に茂る「シダ(羊歯)」の仲間は、別名、「金山草(かなやまそう)」ともいわれる、「ヘビノネゴザ(蛇の寝茣蓙)」である。どちらも重金属を蓄積する奇妙な植物で、金・銀・銅山などの露頭や鉱床にはつきものの植物。いわゆる「山師」といわれる金属鉱脈を探す昔の人たちは、経験的にこれらの植物を道標(みちしるべ)、指標植物として利用していた。

 「ヘビノネゴザ」は、銅と鉛を主として集積する性質があることが近年わかってきたが、植物の種類や部位によって、蓄積される金属の種類も異なるという。


 北摂には、我が遊びの山、ボランティア活動のフィールドとしている一庫ダムの「知明山(奇妙山)」を中心として箕面市、池田市、川西市、宝塚市、能勢町、豊能町、猪名川町の4市3町にわたる東西20km、南北25kmの広大な鉱山地帯が形成されており、この地域一帯には、「多田銀山」に代表されるように、全部で2800余の「間歩(坑道)」が残っているという。

 「知明山」のある一庫公園園内にも間歩が残っており、昨年、「エドヒガン」群落とともに川西市の天然記念物に指定された。

 同じ鉱脈の延長にあり、隣町に残る「多田銀銅山遺跡」は、江戸から明治に至るまでの鉱山のあり方や産業技術史を考える上で重要とその価値を認められ、平成27年6月、国に国史跡指定とするよう答申された。また、この遺跡には、「豊臣秀吉」の埋蔵金伝説が伝わっており、ここに住み着き、家庭も定職も持たず、37年間地底でひたすら黄金を探しの夢を追って生涯を終えた男がいた。

 かって男たちを一攫千金の夢に駆り立てたかもしれない間歩の跡を横目で見ながら、山作業に勤しむ春の一日 ・・・。